【日常】90年代に現れたオープンワールド的RPG【ドラクエ6】

日常

こんにちは、taicchanです。

最近、ドラクエ6をプレイしています。
以前から好きだった加納新太さんという作家さんのドラクエ考察を折に触れて読み返しているのですが、今回寝スマホのお供に読んでいたらふとドラクエ欲が出てきて、実際にプレイすることにしました。(ちなみにその記事がこちらです↓)

「ドラクエ6」が本当に目指したもの(1)バーバラと竜 - かのろぐ(Kanohlogue)
 ※注:「ドラクエ6」を、私がどういうふうに「読んで」いるのか、物語のスキマをど...

実は僕、デスタムーアともダークドレアムともプレイ中に会ったことがないんです。
そこに行き着くまでに、コントローラーを投げてしまっていました。
その理由がなんだろうと再会する際に考えた折、ドラクエ6の異質さにあるんじゃないかと思いました。

当時プレイしきれなかった理由を、ドラクエ6の構造から一つ考えてみます。
(多分にネタバレを含みます。未プレイでご興味のある方はブラウザバックなど、ご留意ください)



朧げにも見えない物語の終点

ドラクエ6は、それまでのドラクエとは明らかに異なっていました。

5までのドラクエは短期的にも長期的にも明確なゴールが設定されています。
目の前のクエストをマイルストーンを刻むように一つ一つクリアして行って、大きな物語を完成させていく。

たとえば6直近の5であれば、

  • 最終ゴール:家族3代の物語を見届け、世界から魔王の脅威を取り除く。
  • 短期ゴール:自分の生い立ちを知る→結婚→家族との再会

この短期ゴールの中でもさらに細分化されたクエストがあり、例えば幼少期に仲が良かったベビーパンサーがキラーパンサーになって再会したり、青年期前半で脱出した奴隷時代の作業場へ青年時代後半の重要ダンジョンとして帰ってきたり…

あるいは、三部作の集大成として比較するならば3。

  • 最終ゴール:大魔王ゾーマを倒し、世界に光をもたらす。
  • 短期ゴール:魔王バラモスを倒す←魔王城に至るため世界中を旅してオーブを集める。

目の前のタスクが明確に見え、わからなくなったら直近の街や村でとにかく人々に話しかけると「どこそこで、何かが起きている」といったガイドをしてくれます。
3は行き詰まった場合、「情報を足で稼ぐ」ことで突破口を開いていくことが可能になっています。

一方の6。

物語開始当初、短期ゴールとして「魔王ムドーを倒す」というものが設定されます。
これは、すぎやまこういち先生による劇的なBGMと共にオープニングから魔王決戦が盛り込まれるなど、物語を当初進めていく上で明確なゴールとして示され、プレーを進めていく原動力になっていきます。

そして無事ムドーを討伐。
拠点となっているレイドック城に戻ってくると…3であればここで、バラモスは尖兵でしかなく魔王の上に大魔王としてゾーマがいるということが明かされます。
しかし、6で明かされるのは転職を司るダーマ神殿が復活したという情報のみ。
そして、他に行く場所もないのでダーマ神殿へ向かうも、ダーマ神殿では次の行き先は明かされないのです。

今までのナンバリングタイトルで、常に明示されてきた次の行き先が完全に不明瞭になる。
この時点では大魔王デスタムーアの存在も、闇の帝王ダークドレアムの存在も明かされません。
どうやら物語は終わっていなくて、大きなゴールはこれまでのドラクエと同じようにありそう。けれど、それが如何にもこうにも見えてこないという、非常に不安定な状態にプレイヤーは置かれます。

90年代に現れたオープンワールド的RPG

突如、「どこでもプレイヤーの選択で自由に進めるゲーム」=オープンワールドなゲームになったドラクエ6。90年代でこの手法をとった堀井雄二さんはじめエニックスの開発チームは、すごいとしか言いようがありません。

20年後、「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」はNintendo Switchを代表するゲームとなり、現状FFの最新ナンバリングタイトルであるFF15もまたオープンワールドを世界観のベースとしています。

ただ、平成の世で、20世紀末の世でこれを出したのはすごい。
先見の明の塊です。
(もちろん、ルートの制限をしっかり設けていてストーリーを一本道で歩いていくというドラクエの伝統は引き継がれているのですが)

ただ、プレイヤーとしての僕はその挑戦的な手法に全くついていけていませんでした。

今なら、「グランマーズの館に相談に行ってみようかな」とか「ムドーの島の向こうには何があるんだろう?」などと想像力を働かせてプレーできますが、当時の僕にはそれができず…
ネタバレとなるのを涙を飲んで(嘘)、近所の本屋さんで攻略本を立ち読みしたり、すでに自分よりはるか先にストーリーを進めている友達に相談をしたりと、自力での解決を諦めていました。

そして、そうして安易な手段で得たゴールに達成感はついてくることはなく、僕はプレーを中座してしまいます。
「なんでこんなわかりにくい作りにしたんだよー!」といって、コントローラーを投げてしまっていました。

あの時の自分に、今の僕なりに答えたいと思います。
なんでドラクエ6は、こんなわかりにくい作りになっているのか。

「人生はロールプレイング」の体現

堀井雄二さんにサインを求めると必ず書く言葉が、「人生はロールプレイング」だそうです。

ドラクエ6が登場した90年代後半はバブルが崩壊し、終身雇用も絶対のものではなくなるなど激動の時代。「転職」が当たり前のように行われるようになってくる時代の前夜です。

僕たちの人生は、ドラクエ5までのような「次はこれをすると良いよ」と言った道標はありません。
自分達で、目に見えないウィンドウの選択肢を選び、セーブもリセットも効かない自分だけのストーリーを作り上げていく。

ドラクエ6は、ある意味こうした「リアル」を持ち込んだドラクエだったのではないでしょうか。

魔王ムドーを倒した直後、主人公は王妃に一人呼ばれ、彼の出自に関わる話をされます。
そして、この先の旅の中で自分自身を見つけるようにと諭されます。

その直後に向かう先は、職業選択の地・ダーマ神殿。
今の自分を何者として規定するかを決定づける場所です。

「本当の自分」は一体どんな存在なのか、そのために「現在の自分」は一体何ができるのか。
その二つが重なり合ったときに、自分は一体何ができて、何をしたくて、そして何をすべきなのか。
全ての答えが集う最後の地に、大魔王は待っています。

ドラクエは、勇者の物語です。

  • 1~3までが「魔王がいるから倒して来い」と言われ、倒したら勇者と呼ばれるようになります。勇者になる物語。
  • 4は、そこを逆手にとって「魔王を倒しにくる存在=勇者」と規定された主人公を、魔王一派が狙ってきます。勇者であることが始まりの物語。
  • 5は、「魔王を倒す存在=勇者」を「探す」という、それまでの4作とは一転した展開。勇者と出会う物語。

そして、6の勇者は職業です。
所定の手順を踏めば、パーティ全員が勇者になることができます。
1~5までの勇者が特別な存在であったのに対し、6の勇者はひとかどの存在ではなく、誰もが到達できます。

その一方でシステム上、6では勇者不在で世界に平和を取り戻すことができます。
前作5でもパーティに勇者がいなくとも平和を取り戻すことはできるのですが、勇者はある時を境に主人公一向と常に旅路を共にします。パーティにはいなくても、控えからはいなくならない。

「勇者」であるか否か(あるいは「勇者」がいるか否か)、それまでのドラクエではその称号が与えられたものだったのに対し、6では自分で選ぶという形になっています。
この作り、自分が何者なのかを規定するという主人公のメインストーリーにオーバーラップするように思えます。

自分が何者なのかを規定できるのは自分。
だから、ひとつひとつの選択を自分自身で決め、その判断材料を自分自身で見つけ出さなくてはいけない。

そうした背景があるから、ドラクエ6はそれまでのドラクエと比べて誘導が少ないんじゃないかな、と感じました。

これを書いている僕は、今アークボルトまで来て謎の剣士がドラゴンを圧倒したところまで来ています。
この先の旅路は経験済みなのですが、改めて一つ一つの選択を自分で選び、そのための情報を探し出すという目線でストーリーを楽しんでいきたいです。

僕はロマンが好きなので、魔王を倒すのはやっぱり勇者。
なのできっと、デスタムーアと向かい合う僕のパーティには勇者がいるんでしょう。
でもそれは、勇者と一緒に平和を掴み取りたいと僕が選んだから、そこに彼/彼女がいる。

ドラクエ7のキャッチコピーだった「人は誰かになれる」は、もしかしたら6のためのコピーにふさわしかったのかもしれません。

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